otomad

音MADに関して適当に。

"正真正銘"の

イベントに参加するからには、イベントによって付加される文脈を大いに活かしたい。そこで、まずイベントにおいて課された制約を捏ねることから始める。今回であれば、「自分しか知らない曲を用いる」というのがテーマであるので、「誰も知らない曲」、「誰もが知っている曲」という極端な例から考える。

「誰も知らない曲」の場合、非公開の自作曲を用いれば"知るわけなかろう"以外の感想を引き出すのは難しい。それでもなおこの方針を貫くなら、質の高い楽曲(出来るならミスリードするためにも商業音楽らしさを兼ね備えたもの)を作るという方法がある。これならばネタばらしされた後も、見る側に最低限の満足感は残る。この自作曲に更にMVもつけておき、それをオマージュしたMADという体で提示すればイベント後においても更なる広がりも見せるかもしれない。残念ながら自分の場合、DTMのそしてMVを作る素養も持ち合わせてないためこの道は諦めた。まっすぐな道すぎて自分には眩しすぎる。

「誰もが知っている曲」の場合、どう抗っても出落ちの印象は否めないので、それを正当化するアイディアは欲しい。裸の王様の如く、視聴者に有名曲だと知らないふりを演じさせることで楽しめるような仕掛けを作るという発想は面白そうではあるが、具現化する方法を思いつかなかった。他に「この曲、もちろん知りませんよね?」のようなテキストを何度も提示し圧を掛けるみたいな方向性も思いついたが、こちらも着地点を見出だせず不時着も出来なかった。南無。

どちらの方向性にしろ基本的には腕力が必要であるので、具体化するアイディアを思いついたとしても、非力な自分では完成は困難に思えた。なので、いつも通り曲がりくねった道を行き、煙に巻くことを考える。それで採用したのが「誰もが知っている曲と見せかけて誰も知らない曲」という方向性である。

この作品は著作権を回避するために、例えば音程の情報を潰して単音に圧縮しているわけであるが、上からオリジナルの音程を被せて再演することで解凍し、"台無し"に出来ないかと最初見たときに思った。このアイディアを流用すればいけるのではないか。

ミッキーマウスマーチのメロディだけを際立たせるためにも、著作権的に問題ない曲*1に対し著作権的に問題ない素材を組み合わせたい。そこで安易にプロパガンダ系ディズニーを探るも、良いミッキーが見つからない。第二次世界大戦とディズニーによるとプロパガンダではミッキーではなくドナルドが主役の座を射止めていたようだ。南無観。この過程で、

「オモチャ箱シリーズ第3話 絵本一九三六年」を知った。作品の英題が"Fake Music"であるので、このプロパガンダアニメの"Fake Mickey Mouse"と相性は良好に見えたが質の面で断念した。結局次点として、

「ミッキーのフォーリーズ」を選んだ。作品中にミッキーマウスマーチの登場によりお役御免となった"Minnie's Yoo Hoo"という曲が登場しており、このシーンを用いれば相性もちょうど良い。タイトルは英題を反転させた形にし、投稿者コメントも「俺しか知らない曲を選択すべきところを、つまらない奴が逆張りで皆が知っている曲を選んでいる」感を出すようにした。今思うと、どういった層に対してミスリードしようとしているのか少し混乱しているように見える。"Minnie's Yoo Hoo"の切り貼りだけでは画として寂しいため、ニュー・シネマ・パラダイスを借用して画中画の構図にしたのも、落ちっぽく蛇足的に仁勢ミッキーをひっつけたのも思想に心中しておらず中途半端になっている。

BaN長さんがこの曲を知っていると知ったのは、投稿して翌日か翌々日に彼ないし彼女ならば知っているかも知れないとふと思い検索した結果、知っていたと知ったときのことである。もし知っていると知っていたら当時の自分はおそらく作ってないであろうと今の自分は知っているので、そういう点では良かったのかもしれない。知っていると知ったことで影響を受けたことといえば、こういった文章を書く場合に、公開する時期を生放送前にするか生放送後にするかということである。知らないであろうと推測していれば、生放送前に公開したほうが楽しめるであろうし、今回のように知っていると知っていた場合には放送前に公開すると、この文章が"正典"として扱われ,、氏の解釈の余地を狭めかねない。自分に対して気を使うだろうし。放送を見て(気づかなかったのでタイムシフトではあるが)反省点も見つかったので非常に良かった。

そもそも今回の文脈が二周くらい回ってる感じになってしまっているので、もっと素朴に"Fake Music"の音程で作って良かった。雑さから来る素朴な笑いも喚起し得るし、単なるミッキーマウスマーチではないことにより疑問が生じ、能動的に調べようとする動きが生まれる可能性も生まれ得る。惜しむらくは、この反省を活かす機会がないこと。